「クサノ君、せっかくだから軽く飲んでいかないか?」
6月23日金曜日午後6時、30分ほど残業していると係長から声がかかった。
名前の間違いを訂正すべきかと一瞬考えたが、すでにミートの時間も迫っていたので、「はずせない用件がありまして」とだけ答えると急いで着替え、駅へと向かった。
行きの電車の中、昔のバイト仲間とちょっと前に飲んだときのことを思い出した。疲れきっていて「転職を考えている」と言っていた。就職してから5年くらいが経ち、面倒な立場にもなってきて(やりがいのある、でもある)いろいろと考える時期なのか。翻って私はと言えば、今のところ転職は考えていないが、「何かを先送りにしている」という言葉にできない焦燥感を抱きながら日々生活しているのは確かである。
日々にうつり行こゝろの哀れ、いつの時にか誠のさとりを得て、古潭の水の月をうかべるごとならんとすらん(注1)
そう、私は心の平安を求めて今日もミートへと向かっているのかもしれない。
あまり意味もなく重めな出だしとなりましたが、どうも、ばっちゃです。eriさんのご要望により2回目のレポートとなりました。冗長に過ぎると思われるかもしれませんが、その辺に関しましては皆様のご寛恕を請うばかりです。
さて、東京駅に着いてみると午後7時。慌ててタクシーに乗り佃島小学校へ。更衣室でいっしょになったブチさんと体育館に行ってみると・・・少ない。すでにランダムが始まっているのに、コートが3面中2面しか使われていない状態。参加者はこの時点で約10名(レポートのことはまったく考えていなかったので人数は終始適当)でした。
ブチさんと基礎打ちをしているうちにまた何人かいらっしゃって最終的には約15名となりました。人数が少なかったので本日は最後までランダムでゲームを続けました。初参加はマエダさんが男女各1名の計2名でしたが、ご夫婦ではないとのこと(掲示板、トラコさん情報)。
本日もっとも悩んだのが、ラリーポイント制。まだ先のことだと思っていたのに、もうそんなに目前の事柄になっていたとは。本日はひとまず言われたとおりに打ってました。イカン、勉強せねば。
練習後、トラコさんは旭湯、有志9名は「築地日本海」で反省会を実施。メインテーマはサッカー。皆さんかなり本気で観戦してたみたいで、出勤してから人に結果を聞いてるような私では到底ついていけない盛り上がり具合でした。サブテーマはバドのこと。やっぱりバド好きの集まり、こちらも熱い語らいとなりました、が、隣りにいたロッタさんが熱燗を飲み始め、これは杯を受けずにはいられない、ということで日本酒に手を出したため内容は覚えておりません。
散会となってから有楽町までは行ったのですが、唐突に帰るのが面倒になって八重洲のホテルに泊まりました。ホテルに泊まるのはキレイなベッドで寝られるのとなんだか大人な気分になれるので嫌いではありません。シャワーを浴びベッドに横になってから行きの電車のこともあって、自分とバドについて沈思黙考。ただし酔っているためかなりまとまりがありません。
大学時代、バイト先でしゃがんで休んでいる女の子のパンツが見えたことがあった。この状況を彼女に告げるべきか現状維持かで2秒ほど逡巡したが、結局のところ良識を発揮し「パンツが見えてるよ」と控えめに表明することにした。すると彼女は私にこう言った。「見なきゃいいでしょ」 私はこの返答に驚愕した。これこそが人間原理(注2)だという了解に至ったのだ。観測者たる私の認識が変容したとき世界は変革し、パンツは見えなくなった。「世界の中のワタシ」であるか「世界を認識するワタシ」であるか。だとすれば「言葉にできない焦燥感」なり鬱屈とした感情もバドを基点にすれば反転することができるのではないか・・・・・・
だめだ完全に酔っ払いの戯言だ。もっと関係性にしぼって考えよう。
なぜ私がバドをするのか、なぜミートに参加するのか。
楽しいから。幸せになれるから。ここまでは結論が出ている。
ではなぜ、楽しいのか、なぜ幸せになれるのか。
それは・・・
世界コミュニケーションの時代を特徴づけるのは、何よりも、知覚の対象が〈世界〉ではなく〈コミュニケーション〉になるということである。世界とは、コミュニケーションされる一切にほかならない(注3)
そうか、私はバドによって世界と、他者とコンタクトを取っているのか。バドはメディア(媒介)。ああ、そういうタイミングでドロップを落とすんだ。やや、その体勢からスマッシュ? すべてはコミュニケーション。
そうかそうか、それじゃあ、なにかしらの負感情を感じたとしたらそれはコミュニケーション不足・不全かもしれないわけか。おお、まとまって来てる気がする・・・けど頭が回らない。う~ん・・z・・眠・・zz・・い・・zzz・・ZZZ
(でもやっぱりバドをやってるときが一番楽しいのは間違いない、うん)
注1 佐伯順子 編『一葉語録』(2004年 岩波書店)
注2 宇宙が現にあるような姿で見えるのは、もし宇宙が別の姿であったとすれば、われわれが存在して宇宙を観測することはできないためである、という考え。スティーヴン・W・ホーキング『ホーキング、宇宙を語る』(1995年 早川書房)より
注3 ノルベルト・ボルツ『世界コミュニケーション』(2002年 東京大学出版会)
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